更新履歴とよもやま話 ホームへ
ホームページの更新履歴と編物関係のさまざまな話題を取り上げます。

 2001年4月29日(日) 

次のコンテンツは「初めての帽子」にする予定でしたが、輪編みの説明のイラストを12枚描いたところで、まだまだイラストが必要ということが分かりました。これでは帽子の編み方の中でのボリュームが大きすぎます。そこで予定を変更して「徹底図解シリーズ・輪編みの編み方」(仮題)を先に作ることにしました。う〜ん。編物の技法でドキュメント化されていないものって、ずいぶん多いですね〜。とほほほ〜。

 2001年4月27日(金) 

本日発売の「あちゃら」6月号、P247「なんでも初めてガイド」にこのホームページが掲載されました。この2ページの企画は、新入社員の一年を5月〜4月まで、毎月新しいことに挑戦していくことにして、それぞれの月のテーマにふさわしいホームページを一つづつ、合計12サイト紹介するものです。

以上のように書くと、やけに堅そうな記事という印象がありますが、いえいえなにせ「あちゃら」ですから。(笑)張り切っていたはずの新入社員は、どんどん崩れていって最後は退職、頭はアフロで決めるというオチ(?)です。

私たちのホームページはバレンタインデーのある2月に紹介されているのですが、1月は「フーゾクで満足するために」で、3月は「プータローよりおならプー」という、なんともトホホな紹介文。教育委員会がリンクを要請して来たこともあるこのサイトの紹介が、「2月に射精の虚しさに辟易して真のあたたかさを編物に求め」ですから、もぉハラホロヒレ〜。

しかし、惜しいかなこの企画、文とイラストが合ってません。文章は、1月に風俗狂いをして虚しくなって、誰からもプレゼントを貰えない貧しいバレンタインデーを、自分で作った初めての編物で満足する、というドツボなストーリーですから、イラストは男が暗く編んでいるシーンでないといけないはずなのに、実際はやたら陽気な女の子が楽しそうに編物しているイラストで、背景にはL・O・V・E(ハート)や音符までちりばめられていて、「ちゃうやんけ〜!」。しかし、文章は男性でイラストは女性のようですから、わざと楽しい絵を描いて「編物」をフォローしてくれたのではないか、と勝手に解釈しております。

 2001年4月26日(木) 

「編物」という趣味と「編物デザイン」という趣味は別のジャンルに属するのではないかと思うほど、違います。例えば「ぬり絵」と「オリジナルイラスト」とは明らかに別の遊び・技術だということに異論はないと思いますが、編み方や糸の種類を本で見て編むのは「ぬり絵」的な趣味です。もちろん編物技法は「ぬり絵」よりもはるかに高度なものが要求されますし、その奥も非常に深いものです。また、編物も正真正銘、本の通りに編むのではなく、大きさ・糸の種類・色などの変化を含めた様々なアレンジを凝らす人のほうが多いと思います。その意味で、これも大きく見れば創造的な楽しい趣味であることは間違いありません。私たちも、よく「毛糸だま」などの本に載っている作品を編みます。

しかし、一度でもまったく書籍に頼らずに、本気でオリジナルデザインをやってみれば、その大変さが想像を遥かに越えたものであると、身に染みてわかるはずです。この大変さはどれほど編物技法に長じていても、全く変わりません。

編物の本を見ても、オリジナルデザインについて説明した本はほとんどありません。Designing Knitware(Deborah Newton,The Tauton Press,1998)は、例外的なオリジナルデザインをテーマとした本ですが、その書き出しが「10年前、私が駆け出しのデザイナーだった頃、ニットウェアデザインに関する情報が少ないのに、完璧にイライラさせられた」と始まるのです。そして、デザインする能力とは詰まるところ、「見る技術」(Learning to See)であると結論付けます。これにはうなずかされました。その通り、編物に限らず、創作を始めると見る目がめきめきと上達します。今までどれほど物を見ていなかったか、逆に驚くほどです。現代は情報化社会と言いますが、実際のところは評論的な聞きかじった情報が多く、本質を見る力は逆に衰えているのではないかと思えます。実は、編物という趣味の大きな効能は「ファッションを見る能力」の向上ではないかと私たちは思っています。谷崎潤一郎氏の「文章読本」(中公文庫,1975)には次のような文章があります。

しかし、感覚を鋭敏にするのには、他人の作った文章を読む傍ら、時々自分でも作ってみるに越したことはありません。もっとも、文筆を以って世に立とうとする者は、是非とも多く読むと共に多く作ることを練習しなければなりませんが、私の云うのはそうでなく、鑑賞者の側に立つ人といえども、鑑賞眼を一層確かにするためには、やはり自分で実際に作ってみる必要がある、と申すのであります。たとえば、前に挙げた三味線の例で申しますと、自分であの楽器を手に取ったことのない人には、中々三味線の上手下手は分かりにくい。何度も繰り返して聞くようにすれば分かって来ることは来ますけれども、そこまで耳が肥えるのにはよほどの年数がかかるのでありまして、進歩の度が遅い。然るにたとい一年でも半年でも、自分で三味線を習ってみると、音に対する感覚ばめきめきと発達して来て、鑑賞力が一度に進歩するのであります。

(脱線しますが、今この文豪の文章を引用していて、その物凄さに脱力しそうになりました。このような文章の味わいというのも、自分で文章を沢山書くようになって初めて分かる部分が多々あります。情けないですが、学生の頃はさっぱりわかりませんでした。)

現在のファッションは、ファッション雑誌などから、あ〜だこ〜だという知識を仕入れて、その知識量を背景に色々なアイテムを組み合わせるのですが、なかなかどうして、自分なりの本当の価値観が反映されているのか、単に情報に振り回されているのか不安になることもあるはずです。自分が着るものを自分で作ってみる、それもできれば一からデザインもしてみる、この経験は自分の本質的な嗜好と流行との関係を考え直してみるいい機会になると思います。

 2001年4月24日(火) 

久しぶりの徹底図解シリーズ「初めての帽子」を作成中です。帽子の試作品は、毛糸が足らなくなって、週末まで中断を余儀なくされました。今週は、図解のイラストを一枚でも多く描こうとしています。最近、輪編みが苦手な方も多いようですね。輪針を使うと簡単ですが、技法的に発展性がないので、今回は輪針を使わずに4本棒針で輪編みをするための、作り目・針のさばき方・目の緩みを防ぐコツ、などを詳しく解説する予定です。従来の徹底図解シリーズ同様、これまで書籍などで解説されたことがない情報を沢山提供いたします。輪編みが苦手な方はどうぞご期待ください。

 2001年4月23日(月) 

今日、インターネットを見ていたら、下のようなホームページを見つけました。どこの国の人も同じだなぁと思いますね〜。(笑)

糸を買う15の理由 (テディ・リトル編 オリジナルURL(英文) )

  1. タンスを保温するため
  2. 経済活動の助けになるから
  3. 神経科医にかかるよりも安くて、楽しいから
  4. セール中だから
  5. メキシコワタミゾウムシが突然大発生して、10年間綿花がとれなくなってしまうかもしれないから
  6. 冷凍しなくてよいから
  7. 餌をやらなくてもいいし、電池を換えなくてもいいし、鼻を拭いてやらなくてもいいから
  8. 調理しなくてもおいしいから
  9. ダイニングテーブルの上のように、家具の上に隙間なく並べて表面に傷が付くのを防ぐため
  10. 大地震が起きて、手芸店がすべて埋没するかもしれないから
  11. 不道徳でもなく、違法でもなく、太る原因にもならないのに、気分よくなれるから
  12. 綿花栽培農家と紡績工場を支えるのは、国民の義務だから
  13. 旦那が定年になって、一緒に買い物についてくる前に、今買っておかなければならないから
  14. 一日一かせを買うのはアメリカ中の手芸店の要請だから
  15. 糸を集めるためなら死んでもいいから!
 2001年4月22日(日) 

国際社会の中で、日本人は自己主張をしない、何を考えているかわからないと言われることが多いという話はよく聞きます。これが事実がどうかは別として、海外のニッターの本を読むと、それぞれの作者の思い入れがびしびしと伝わってくる事が多いのに、日本のニット本からはほとんどそのような生々しい情動が感じられないのは事実ではないでしょうか。同じ日本人として淋しい気持ちがします。

ただ、自己主張と言っても単純に雄弁なことを意味するわけではありません。例えば、以前に取り上げたアリス・スターモアでも、決して雄弁というような印象はありません。ドイツ語と聞き間違うようなスコットランド訛りの英語で言葉を選びながら話す姿はむしろ訥弁というような印象さえあります。

しかし彼女は例えば、「Fair Isle without Fear」(恐くないフェアアイル)というビデオで、静かに自分の生まれた島を案内し、海岸をめぐり、牧場に入るとシェットランドシープの毛をひとつまみ手にとって、両手で静かにそれを引き伸ばします。シェットランドシープの毛は細い繊維となりながら驚くほど長く滑らかに伸びていきます。彼女がいつくしむかのように何度となくシェットランドシープの毛を無言で引き伸ばす姿からは、静かな中に力強いメッセージがはっきりと伝わってきて目が釘付けになってしまいます。

ビデオの中でアリス・スターモアはファアアイル技法を解説します。それも、きわめてゆったりとしたテンポです。日本の技法関係のビデオは短い時間に沢山のものを詰め込もうとして、やたらに忙しいのですが、このビデオは風景映像が間に挿入されたりして、日本人の感覚では極めてまどろっこしい展開です。しかし、同じ模様で配色を変えることよってどれほど違いがあるかを示すために、籠からとりだす「スウォッチ」(見本の編地)は目が覚めるように効果的で、美しく、宝石を見るように見入ってしまいます。

その後、彼女は実際に編針を使って編み方の技法を説明するのですが、その両手の指には、信じられないほど巨大な編みだこ!無言の迫力に圧倒されている間にも、淡々と技法の説明は続きます。

アリス・スターモアは終始笑顔で、おばあさんが孫に教えるような静かな声で説明するのですが、ビデオがいよいよ終わろうとするとき、突然カメラ目線で「それではあなたに最後の秘訣をお教えしましょう」と、これも静かに語ります。息を呑んでじっと聞き入っていると、彼女は不意にニコリと微笑み、こう言ったのです。

"Practice." (練習です)

 2001年4月18日(水) 

昨日は日本の編物の出てくる歌、「かあさんの歌」の話を書きましたが、今日はシェットランドの編物の歌を下手な訳で申し訳ありませんがご紹介いたします。

雪のように白い頬かむりして
薄い皮の靴を履いた
奇麗な髪に薔薇の頬
シェットランドの乙女
ピートの籠をしょってとぼとぼ歩く
とぼとぼ、とぼとぼ、とぼとぼ
とぼとぼ道を行くよ
体を曲げて歩いて行くよ
こんな悲しみの歌を歌いながら
朝から夜遅くまで
あたいの編み針は休むことない
合わせて、こすって、つけて、回して
どんな風にもお望みどおりに編むわ
編むわよ、編むわよ、編むわよ
女王様が着るようなショールも
靴下も長靴下も水兵の外套も
グリーンランドの風さえ入らない
だけどあたいの働きはみんな無駄になった
誰かがあたいの幸運をもっていった
砂糖と紅茶とキャラコと交換する
お店にもっていくために編んだもの
全部盗られたの
売ろうと思ってたのに一文無しだよ
これなら自分で着ておけばよかったよ

"King James Wedding and Other Poems" by J.Sands

 2001年4月17日(火) 

編物に愛情がこもっているという、「お約束」を広めるのに「かあさんの歌」はとても影響力があったように思います。しかし、この歌が描く情景は人工的で私たちは好きになれません。歌詞のところどころに東北弁らしい言葉が交じるのですが、これはとんこつのカップラーメンを食べて「うまか〜」などと叫んでいるコマーシャルと同様、あざとさが感じられます。

そもそも「かあさん」という言葉自体が、少なくともこの歌が流行った昭和30年代では、地方の人にとってかなりハイカラな呼び方だったはずです。そのうえ、父親の呼び方は「おとう」となっていて妙にアンバランスです。アンバランスといえば、父親が藁打ちをしている家の囲炉裏端で、母親がウールのメリヤス編みの手袋を編む、という対比自体が、日本の農村描写としてどれほど適切か首をかしげたくなります。

それもそのはず、「かあさんの歌」を作詞作曲した窪田聡氏は東京都墨田区の生まれです。開成高校卒業後、大学に合格したにもかかわらず、家出をするのですが、その原因は進路に関して母親との対立があったからということです。

信州新町には、「かあさんの歌」の歌碑がありますが、ここは父親の実家で、氏が戦中に疎開生活を送った場所です。そこでは、「叔父」が土間で藁打ち仕事をし、「祖母」が麻糸を紡いでいたという情景があったようで、これが「かあさんの歌」の元となっているということからこの地に歌碑が建てられたようです。

想像するに、おそらく「かあさんの歌」には母親の望む生き方に反発したことに対する原罪の意識が塗りこめられているのではないかと思われます。それ自体は別に問題ではありませんが、この歌がNHK「みんなの歌」などで取り上げられてヒットしたために、「編物」という手芸にセンチメンタルな甘い味付けが濃厚に染み込んでしまったといういうことは、編物文化にとって、ある意味で不幸なことであったと思います。感傷的な思い入れというのは、技能・芸術にとってあまりプラスには作用しません。

日本人がデザインする編物にどこか共通する甘さやセンチメンタルな気分というのは、この歌の遠い影響ではないのか、とさえ思うのです。

 2001年4月16日(月) 

最も、もらって困るプレゼントの一位は、ここのところずっと「手編みのセーター」のようです。私たちも奥さんが旦那さんに「編んであげようか?」と聞いたら「いや。怨念こもってそう。」と断られたというメールをいただいたことがあります。まぁ、これは照れ隠しもあるとは思いますが、実質的にもやはり「手編みのセーター」はもらって困るもののようです。こんな不自由なことになったのは、編物ファンにとっては悲しいことですが、まぁやむを得ないのか、と諦めていたらふと、手編みのものをもらって困るのは「値段がないから」ではないか?と思い至りました。「豊かさの精神病理」(大平健著,岩波新書,1990)に、「消費する大衆」のプレゼントについて次のような記述があります。

"誠意"とは高価なプレゼントのことだというのは、今や、若い人びとに限られた考え方ではないようです。「未公開株」とまではいかなくても、高価なモノを贈られると、人びとは「こんなに感謝してくれていたのか」と送り主の"誠意"に胸を打たれますが、安物をもらったのでは「義理でこんなモノ送ってこなくてもいいのに」と不満の色を示します。逆に、「もらう筋合いでない」のに高価なモノをもらうと、素直に喜べず当惑します。自分の方でも高価なモノで返礼しなくてはならないからですが、カネのためばかりではありません。深い人間関係に入るつもりのないヒトと、義理以上のつき合いになるのを恐れるのです。

う〜ん。言われてみれば、そうですね〜。

ともあれ、いつの間にか人びとはモノに気持ちを託して贈り、モノをもらって贈り主の気持ちに感謝するなどというまどろっこしいことをやめてしまいました。贈りモノがすなわち"気持"というプラグマティックで分かりやすい哲学に乗り換えた人びとがたくさんいるのです。
この贈りモノのプラグマティズムは、良きにつけ悪しきにつけ、ヒトの気持のヤヤコシイところ、ナマナマシイ面、ワケノワカラナイ点をきれいさっぱり消し去りました。そのおかげで、人びとは情緒を失いましたが、惑わされることもなくなりました。人びとは、プレゼントによって、ある意味でドライで、ある意味で淡々とした人付き合いをするようになりました。

こういう形のプレゼントに「手編みのセーター」はまったくなじみません。なにしろ価格がないのですから、もらうほうとしては無限に高価なプレゼントを受け取ることを強要されるような息苦しさを感じるのは当然かもしれません。だからといって、お返しに手作りのものをプレゼントしてはたしかに、誤って「"愛情"が贈られてしまう危険」が大です。プレゼントするモノがすなわち愛情だという文化では、モノに愛情を込めるという儀式は、そもそも反則技なのかもしれません。

 2001年4月15日(日) 

「誰のためのデザイン?」(D.A.ノーマン著,野島久雄訳,新曜社認知科学選書,1990)は、デザインに関する洞察に満ちた本です。

もしも私が最新のジェット機の操縦席に座っていたとして、そこで優雅に流れるように操作ができなかったしても、驚きもしないし、困りもしない。しかし、ドアやスイッチや蛇口やコンロの操作が困難であるとしたらそれは困る。「ドアですって?ドアをうまく開けられないのですか?」と尋ねられるかもしれない。その通り。私は引いて開けるドアを押してしまったり、押して開けるドアを引いてしまったり、横に滑って開くドアに正面から突っ込んでいってしまったりする。私だけでなく、他の人も同じようで、本来なら味わわなくていいはずの困難を覚えているようだ。これらのものを理解しやすく、使いやすくする心理学的な原則は存在するのである。

この本では以上のように説明したあと、ドアを開くときに正しく開く動作を導くためのデザインについて長い紙面を使って説明しています。読むと、まさにその通り!日常生活のなかで、いかにドアを間違って開こうとしているか、その頻度に逆に驚かされます。なぜ、それに気が付かなかったか不思議になるほどです。その説明の中で、デザイン上の重要な要素として、「アフォーダンス」という言葉がでてきます。アフォーダンスとは「そのものをどのように使うことができるかを決定する最も基礎的な特徴」という意味で使われます。

この意味で、かぎ針というのはアフォーダンスが極めてはっきりしています。初めて触るひとでも、かぎ針と毛糸があれば、針で糸を引っかけてみたりするでしょう。つまりかぎ針の形は、糸を掛けて引っ張る動作をアフォードしています。しかし、同じ編物でも棒針はアフォーダンスに非常に乏しいのです。先が尖った針は決して棒針編みの動きをアフォードしていません。あえて言えば、針で糸を突き刺すというような動作のほうが導かれやすいでしょう。私たちは棒針編みのほうがかぎ針編みより難しいと言われる大きな理由がこのアフォーダンスの欠如にあるのではないかと思っています。したがって、指導者はそのような違った方向へのアフォーダンスが働いていることを理解した上で指導方法を考える必要があるのではないか、これが私たちが「フランス式の編み方」を書く際に感じていた解決すべき問題点でした。長い歴史を経た道具や技法にもまだまだ改良の余地は残されているのです。

 2001年4月12日(木) 

しかし、それにしても、よりにもよって「年配の女性」をピート運搬のような肉体労働に使役するとは気が知れない、昨日の本を読んだときはそう思いました。しかし、これも今風の誤解かもしれません。編物という手芸にいそしむお嬢様、というイメージでシェットランド女性をとらえることはとんでもない誤解のようです。続きを読みましょう。

(前略)しばしばシェットランドの女達は、男よりも優れた働き手であると記録されている。漁にたずさわる男達は海から戻ると労働は終わったものと感じ、家事や畑仕事の手助けをすることはほとんどなかった。それは漁のない冬場でさえ変わらなかった。この事実は1849年の'The Third Report on Highland Destitution'に次のように記録されている。
...船が岸に接触するやいなや海の男達は、自分自身を特権階級のように感じ、通常の人間としての義務から免除され、ほとんどすべての畑仕事を女性たちに委ねている。ある工兵は道路工事に精を出す女性たちを次のように評している。「あの女達はね、旦那。シェットランド最高の男でさ。」
いや、日本の男達も、どこでどのように批評されているか知れたものではありませんよ。
 2001年4月11日(水) 

以前、Knitting by the Fireside and on the Hillsideの表紙に、二人のピートを背負った女性が編物をしている写真があることを紹介したのですが、この本を読んでいて、その写真の説明のところまできました。シェットランドは地域産業がなかなか根づかず、未婚の若い女性は漁業の最盛期には家事労働のために一時的な雇用があったことを紹介したあと、「歳とった女性」についてこのように書きます。

歳をとった女性は、丘からラーウィック(訳注:シェットランドの州都)の街までピートを運ぶ仕事に雇われた。この労働は靴下を編むことがセットになっていた - 写真 2.1 参照。この奇習はしばしば旅行者によって記録されている。例えば裕福なアマチュア科学者である、ジェームスウィルソンは1841にシェットランドを訪れ、ラーウィックのFort Charlotte から戻る際、日記にこう書きしるしている。
...女性の群れが背負子や藁の籠に、丘陵の苔地帯のピートを背負って、終わりのない旅を歩んでいる。彼女たちの両手は熱心に編物をしている。
私たちは、ピートを運びながら編物をすることは知っていましたが、ピートは自家用のもので、編物は内職と思っていました。つまり、女性の自主的な作業と感じていたのです。しかし実際は、そうではなく、「労働」だったのです。この世に「ピートを運びながら編物を編む」という労働があろうとは!いかに物事の本質を見ようと心がけていても、知らず知らずの間に時代の思い込みというのは入ってくるものです。マルコポーロの昔から「見聞録に誤りなし」と言いますが、直接見て、聞いたこと、それ自体がいかに間違いのない事実であっても、そこから正しい理解を得るまでには、まだ長い道程があるのだなぁと思わずにはいられません。
 2001年4月10日(火) 

「伝統ニット」に対する思い入れは人によって様々なようですが、私たちの感じでは「伝統ニット」をそれほど魅力的なものと考えない人のほうが多いようです。私たちも「伝統ニットにはあまり興味がなかった」というようなメールを結構もらいました。再びアリス・スターモアの Fishermen's Sweaters の話になるのですが、この本の序章で彼女はこう書いています。

世界中のあらゆる伝統ニットの中で、すべてを輪編みにするフィッシャーマンズガーンジーの編み方こそが、最も技法的であり、洗練された見栄えを持っている。これが私の主張であり、偏向なしに見た際にそれが信じられていないことに対して異議をとなえるものである。

アリス・スターモアはシェットランドで生まれて、「話すことを覚えるように」編物を覚えた、おそらく最後の世代のニッターです。彼女はプロのデザイナーとなり、様々な伝統技法に精通するのですが、それでも輪編みのガーンジーほど「私の細部への視線・編物の数学・構成の専門技法」を満足させうるものは他にないと言い放ちます。この自信、この過激な宣言、これを一読して連想されるのは、メアリー・トーマスです。メアリー・トーマスはおそらく20世紀でもっとも影響力のあった編物本 Knitting Patterns の中で次のように書きます。

農夫の衣服はとても単純であり、すべての努力は生地を色彩やスパンコールやビーズや刺繍で飾りたてることに向けられます。(中略)これらのパターンは小さな紙切れや木片、時にはテーブルの上で考えられます。他の生地から借用する場合であっても、それを書き留めることはありません。とても考えられない!編地は丸く、継ぎ目無しに編まれます。それは、衣類が収められる人体があたかも鎧のように円筒をつなげたものとみなされるからなのです。これ以上ないほど単純です。

メアリー・トーマスはロンドンのジャーナリストです。輪編みをもとにした古い編み方に関しては敵意すら感じさせる筆致でこき下ろしています。彼女は古い模様を集めるのにとても熱心であったようですが、伝統的な編み方・造形のありかたには価値を認めていないようです。直後の章で、彼女は「モダン」な編み方として Flat Knitting を大きく取り上げ、その立体造形理論が過去の編み方よりいかに優れたものであるかを語ります。よくは分かりませんが、ニットウェアを内職からファッションに向上させたという自負心があるのではないかと思うほどです。たしかに現在のニットウェアの主流は平編みであり、それによってニットウェアのシルエットは洗練されたものになったことは、昔のガーンジーセーターと並べてみれば一目瞭然です。

アリス・スターモアが前述の文章を書いたとき、このメアリー・トーマスの文章は当然念頭にあったのではないかと想像します。その上で、いったん切り捨てられた伝統技法に対する復権を語っているのに違いありません。これはおそらく彼女のアイデンティティを掛けた宣言なのではないでしょうか。ロンドンという都会とシェットランドという田舎、そしてイングランドのジャーナリストとスコットランドのニッター、傍観者の立場である私たちは、無責任かもしれませんがどうしてもそこになんらかの対決・因縁めいたものを想像してしまいます。

正直なところ、私たちには伝統的な輪編み技法の復権は、今後もおそらくないとしか思えません。シェットランド伝統技法は、今日のニットウェアに対する様々な要求を満たすだけの柔軟性は備えていないのではないでしょうか。しかし、Fishermen's Sweaters を見ると灰色の空が続くスコットランドの海岸にモデルが立っています。ほとんど色彩らしい色彩のない冬の海岸をあえて背景に選んだのは、この風景の元でこそガーンジーは引き立つのだという思いからでしょうか。それとも、都会の流動的なファッションとは別の場所に立ち、時代の逆風にしっかりと耐える伝統を今生み出すのだという決意なのでしょうか。いずれにしても、私たちはアリス・スターモアのアイデンティティを掛けた創作からは目を離すことができないのです。

 2001年4月9日(月) 

最近、ヨーロッパ伝統ニットの書籍や、北欧の歴史書を調べることが増えてきました。今日、ふとアリス・スターモアの Fishermen's Sweaters を本棚から手にとって、買ったときにはなかった強烈なインパクトを感じました。この本はガーンジーセーターを中心とした作品集です。スコットランド・イングランド・アイルランドの沿岸の地名が順番に並んでいて、そこのセーターをテーマにしたと思われる作品が紹介されているのですが、私たちが古いモノクロ写真から感じるセーターの魅力がより洗練された形で現代に蘇ったような作品ばかりです。なにが驚きかと言えば、アリス・スターモアの作品から感じられる味わいの質は、まさしく伝統セーターのそれと同じなのです。これが最初の驚きで、彼女の作品がそれらを踏まえつつもそこで終わらず、新しく洗練された味わいが与えられていることが、二番目の驚きです。以前は、私たちは伝統セーターのもつ味わいや区別がよく見えていなかったようです。例えばガーンジーといえばなんとなくどれも似たような形と雰囲気に思えていたのですが、色々と博物館の写真や古い資料を見ているうちに、知らず知らずのうちに理解が深まっていたのでしょう。アリス・スターモアの作品はまちがいなく現代的なアレンジの作品です。しかし、その中に伝統作品の深い理解と研究による輝きがあり、それが私たちには眩しく感じられてしようがありませんでした。(これは単に伝統模様を使ったからというだけで得られるものでは決してありません。)

その眩しさは、おそらく彼女が自分の作品こそ伝統そのものであるという、強い自信と使命を持っていることに対するものでしょう。「伝統ニット」という言葉に付きまとう、現代的なセンチメンタルで甘いノスタルジックなイメージとはまったく違う伝統への取り組みの姿勢がそこにあります。彼女の本の文章はとても硬くて、読むのに閉口させられますが、アリス・スターモアは古えのニッターの技量と、文献や資料を理解しようとする研究家としての情熱の両方を兼ね備えているようです。彼女はまだ若いので、これからも素晴らしい作品を生み出すことができるでしょう。私たちにとって新作がなにより楽しみなデザイナーの一人です。

 2001年4月8日(日) 

編目記号と編み方のすべり目・浮き目に関して、補足説明を追加しました。

たた夫の風邪へのお見舞いメールありがとうございました。ほぼ良くなりました。ご心配をおかけしてすみませんでした。

編物といえば、現在ではウール製品というイメージが強いと思いますが、昔は絹や綿・金属糸なども一般的で、必ずしもニット=ウールということはなかったようです。しかし、ウールという素材がなければ今日のニットファッションもなかったでしょう。ウールという天然素材はいまだに化学繊維の及ばない性質を持っているようです。

ウールを生み出す羊が家畜化されたのは今から一万年前、オリエントの「肥沃な三日月地帯」だったとみられています。ここは言うまでもなく農耕の起源とされる場所ですから、農耕と牧畜は同じ場所を起源に持っていることになります。農耕によって食料の生産性が上がり、人口密度が増え、また家畜化された動物も密集して飼われるため、人間通し、家畜通し・人間と家畜の間の接触が増えてきます。実は、今日疫病として恐れられる病気の起源はこのような接触によって生み出されたもので、それほど起源の古いものではないそうなのです。

今回、たた夫が苦しめられたインフルエンザも、もともとは鳥類に感染するウィルスなのです。中国南部の地方では、水鳥・豚・人間が濃密な接触関係にあり、もともと鳥類を宿主としていたはずのインフルエンザウィルスが豚に感染し、豚の体内で生き残るために変異がおき、そして人間へ感染する新しい変異が起きる、というサイクルで新しい型のインフルエンザウィルスが生まれてくるというメカニズムらしいのです。

1917〜1919にかけて、数千万人を死に至らしめ、ドイツが第一次大戦に破れる原因の一つとなったスペイン風邪もインフルエンザの一種です。ただ、ここまで致死率が高かった理由は今も分からないため、スペイン風邪で亡くなり、永久凍土に埋められた遺体から、スペイン風邪ウィルスのDNAを抽出しようという研究があったそうですが、万一スペイン風邪を再度この世によみがえらせてしまうようなことがあったらと思うと、「アウトブレイク」のような恐怖を感じたことを思い出します。

ウールやダウンや皮革で、人間に暖かい衣服を提供してくれる家畜、そして一方で死の病の生み出される温床でもある家畜。今回のたた夫の病気のあと、ウールのセーターに手を通すときに、ふと考えさせられてしまう一瞬がありました。

 2001年4月5日(木) 

モヘアの透かし編みマフラーの説明と編図を追加しました。編み方図解はまだです。

日曜日の夜からたた夫が38.7度の高熱を出して、月曜日に病院に行ったのですが、丸4日経つ昨日の夜まで熱が下がらず、ついに39度にまでなったので、夜間救急窓口に駆け込んで、座薬の解熱剤を貰いました。しかし、それでも熱が下がらず、大変でした。幸い、今日は熱も下がって食事もとれるようになりました。たちの悪いインフルエンザのようです。皆様もどうぞお気をつけてください。

 2001年4月1日(日) 

モヘアの透かし編みマフラーの写真を追加しました。説明は、まだできていません。

 
 
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